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はじめに
大きすぎる犠牲:人類が払う代償に照らした核兵器の再考

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この電子書籍版では、核兵器がもたらす人道上の悲劇に焦点を当てています。広島と長崎に原爆が投下された1945年以降、世界はそうした悲劇を知ることとなりました。しかし多くの人が、時間の経過とともに、核兵器の影響を人道的見地から検証することをしなくなりました。

そうした流れとは逆に、限定的な核戦争であっても人体や環境が被る影響について、以前よりも多くのことが解明されました。赤十字国際委員会 (ICRC) や他団体の研究によれば、再び核兵器が使用された場合に、多くの国々や国際レベルにおいて人道的に対応する能力が不足することも明らかになりました。電子書籍版では、原爆投下直後の写真やパノラマ写真、存命する被ばく者の方々の証言をご覧いただけます。

日本赤十字社とICRCが当時どのように被ばく者を支えたか、また、現在も被ばく者に寄り添う日本赤十字社の活動も紹介。さらには、国際赤十字・赤新月運動(赤十字運動)全体としての見解も提示します。

1945年以来、武力紛争に核兵器は使用されていませんが、意図的または偶発的な核爆発は、現存する脅威です。この電子書籍版では、国際人道法 (IHL) における核兵器の定義をはじめとして、核兵器に関する議論が抑止力や軍事戦略の論点から核兵器の使用がもたらす深刻で長期にわたる人道上許されざる被害へ重点が移行した経緯を説明します。結びは、当時国際赤十字・赤新月社連盟会長で日本赤十字社所長だった 近衞 忠煇 近衞 忠煇, IFRC会長 (当時) 2005年から2019年6月30日まで日本赤十字社の社長 を務めた近衛忠輝氏は、全キャリアを日本および海外の赤十字社・赤新月社の活動に捧げた。 ならびに広島・長崎原爆投下の70周年式典に参加するため2016年に来日した ペーター・マウラー ペーター・マウラー, ICRC総裁 2012年7月1日に総裁に就任。人道外交を積極的に行い、各国政府やその他のアクターに国際人道法の順守を訴える一方で、イノベーションや民間セクターなどとの新たなパートナーシップを通じて現場での人道支援の効率性の向上に注力。 ICRC総裁へのインタビューとなっています。

原爆を生んだマンハッタン計画

 

ナチス・ドイツによる原爆の開発に懸念が高まるなか、ウランの核分裂が発見されて半年後の1939年夏、ハンガリー生まれの物理学者 レオ・シラード(1898 – 1964) レオ・シラード(1898 – 1964), 物理学者/発明家 ハンガリー生まれのアメリカ人物理学者。最初の継続的核分裂連鎖反応の実現に寄与。原爆開発のマンハッタン計画のきっかけを作った人物。 が起草し、 アルバート・アインシュタイン(1879 – 1955) アルバート・アインシュタイン(1879 – 1955), 物理学者/発明家 ドイツ生まれの物理学者。相対性理論を提唱。光電効果の解明により1921年にノーベル物理学賞を受賞。20世紀に最も影響力のある物理学者として広く認められている。 が署名した手紙を フランクリン D. ルーズベルト(1882 – 1945) フランクリン D. ルーズベルト(1882 – 1945), 元米国大統領 第32代アメリカ大統領 (1933–1945)。歴代大統領の中で唯一4期務めた人物。20世紀最大といわれる2つの危機、世界大恐慌と第二次世界大戦を通して米国を主導。 米大統領に送付しました。その手紙は、世界初の原爆の開発を目的とする研究プログラムの設立を提案するものでした。

この忌まわしい手紙が、のちの歴史を変えるきっかけとなりました。はじめは懐疑的な見方が大勢を占め、米国での研究は停滞していましたが、1941年後半、ついに政府の極秘プロジェクトとして、コードネーム「マンハッタン計画」が発足。英国とカナダの支持を得て米国主導で進められました。

中心となる研究所はニューメキシコ州のロスアラモスに建設され、数百人の科学者が核爆発に至る核連鎖反応を起こす物理特性の究明に携わりました。その後3年の間に、このプロジェクトに関わった研究者の数は数万に膨れ上がりました。全米では3カ所の主要研究所を中心に昼夜なく研究が行われ、原爆のプロトタイプができあがりました。

原爆の製造にあたり、ウラン-235 (U-235) またはプルトニウム-239 (Pu-239) が必要になりました。この二つの原料は高密度放射性元素であり、自然界では微量しか見つかりません。核爆発を起こす核分裂の連鎖反応を発生させ、持続させるためには大量の放射性元素を必要とします。米国政府は十分量の元素を生産する目的で、オークリッジとハンフォードにさらに2カ所の研究所を設置しました。

1945年7月16日の早朝、午前5時29分に、ニューメキシコ州のアルバカーキから南へ193 キロ離れた場所で初の原爆実験が行われました。実験のコードネームは「トリニティ」。爆発した爆弾はTNT換算20キロトン (20,000トン) 相当のエネルギーを放出しました。

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公共放送 (PBS) 「テラー博士の巨大な爆弾」の2005年特別版から抜粋。1945年7月16日ニューメキシコにおける世界初の原爆試験。ミカエル・レニック監督



核爆発が起こると、熱エネルギー、放射線、爆風を大量に放出します。熱エネルギーは巨大な火球を生み出すため、地上火災が発生します。その威力は小さな都市が丸ごと灰と化すほどです。爆発で生じた空気の対流により粉じんや地表にある物質が吸い上げられてできる火球や、核爆発特有のきのこ雲が発生します。

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インフォグラフィック:”1945年に広島に投下された15,000 トンTNT核爆弾からの熱風、熱線、放射線による破壊力を示す。出典: Nuclear darkness © ICRC



マンハッタン計画の科学的成功は、人類に計り知れない災厄をもたらす結果となりました。1945年8月6日、トリニティ実験終了から1ヵ月足らずで原爆リトルボーイが広島に投下されました。15キロトン (TNT換算 15,000 トン) 超の爆発で、34万3千人が住む市の中心部11.4平方キロが焦土と化しました。うち7万が即死、その年の終わりには死者は10万を超えました。

3日後の1945年8月9日に二つ目の原爆ファットマンが長崎に投下され、21キロトン、TNT換算21,000トンの爆発を起こしました。長崎は都市としては小規模で、地形が幸いして広島より犠牲者は少なく、建物の大きな破壊は免れました。とはいえ、死者39,000、負傷者25,000に達しました。市の約40パーセントが破壊または損害を受けました。

数十年を経てもなお、原爆投下の直接または間接的影響を受け、電離放射線被ばくによる死者は増え続けました。被ばく者の健康被害は癒えることなく、現在も広島・長崎両市の赤十字病院では何千もの被ばく者が治療を受けています。

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インフォグラフィック:広島・長崎の原爆投下直後の死傷者数を示す © ICRC